「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定まりぬ。いかで都へと便求しも斷也。中にもこの関ハ三関の一にして、風騒の人、心をとゞむ。秋風を耳に殘し、紅葉を俤にして、青葉の梢猶あはれ也。
卯の花の白妙に、茨の花の咲そひて、雪にもこゆる心地ぞする。古人冠を正し衣装を改し事など、清輔の筆にもとゞめ置れしとぞ。」
”卯の花をかざしに關の睛着かな” (曾良)
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旅を続けてきて白河の関に着き、やっとこれから本当のみちのくの旅が始まるぞと実感してきた芭蕉さん。
昔のひともこの気持ちを都へ伝えたいと思ったのでしょう。
この関は奥羽の三関のひとつで歌人や文人たちが詠んだ秋風や紅葉の歌を思うと目の前の青葉もいっそう趣が感じられると有名な歌で昔を偲ぶのでした。 |
江戸後期、芭蕉さんたちが行った後に立てられた関所跡碑。(古関跡碑) |
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また、真っ白な卯の花や茨の花が咲いている様はまるで雪の中を越してゆくような感じたようです。
そして昔の人が(竹田大夫国行がこの関を越えるのに)冠をただし衣装を正して関を超えたと清輔が書いていることを思い出しました。
”卯の花をかざしに關の睛着かな” (曾良)
「今私は晴れ着をもっていないので、その代わりに卯の花を飾りにしてこの関を越えよう」(曾良)
「秋風を耳に殘し」は能因法師、「紅葉を俤にして」は源頼政の歌を引用しながら白河の関を綴っています。
過去の人たちもいい句を残してこの関を超えていった歌枕(昔から歌などにも多く詠まれた名所、旧跡)なので白河の関に来ることを江戸を出る前から楽しみにしていた芭蕉さんでした。
アレッ?でも、「奥の細道」に書かれてある句はなんと曽良さんの句ではありませんか!
その答えは次の須賀川で判明します。
=シンプル イズ ベスト?=
この白河の関跡は行ってみるとヒジョ〜ウに地味なところです。
私も行く前はコレだけ有名なところなの観光客も多いのではないかというイメージがありました。
しかし行ってみると静かな田園風景の中、木々に囲まれた神社がポツリ「白河関跡」と書かれた石柱がポツリ。う〜んシンプル!
(ちなみにその日は平日だったせいか観光客は私だけ。しんしんと静寂がしみてきました。)
ただ、それゆえに幻の関所的な趣がありそれはそれなりにいいのかなと不思議に納得してしまいました。芭蕉さんをはじめ昔の歌人たちも、形ではなくここからがみちのくなんだという目に見えないバリアの存在を楽しんでいたのではないでしょうか。
その代わりといってはなんですが現在は白河の関の隣に「白河関の森公園」があります。
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白河地方の直家(すごや)造りの萱葺き民家を移築したふるさとの家、そば打ちが体験できる水車小屋、白河相撲道場、そして白河の歴史を紹介したビジュアルハウス,などがあります。
遊歩道を行くと展望台へ、そんな広々とした公園です。
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公園内にはレストランもありますよ!
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白河の関
蝦夷の南下の防止策としてつくられた白河の関ですが八世紀ごろには廃絶され、その後その位置ははっきりとわかっていなかった幻の関だったようです。
寛政12年(1800年)に白河藩主松平定信によりいろいろな資料から白河の関を定める碑を建てましたが近年になり(1959〜63)発掘調査の結果空堀などが発見され、そこが白河の関跡ではないかとされています。
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芭蕉さん達も白河関をさがして右往左往したようにもつたえられています。
しかし目には見えなくともそこには白河の関の存在感はしっかりと漂っていたのではないのでしょうか。サァいよいよ白河超えです。 |
白河の関跡 |
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1959年から1963年にかけて行われた周辺の発掘により、空濠〔からぼり〕・土塁・柵列〔さくれつ〕などの関跡と考えられる遺構が確認されました。
右の写真はちょっと見にくいですが、その空濠跡です。 |
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白河神社
白河の関にある神社で千年以上の歴史を持つ神社で、その周りには上の写真の空堀跡やいくつものいわれあるものが見られます。
源義経も、平家追討のため平泉を発し、この社におまいりしていました。
そのときに戦勝を祈願して松に矢を射立てたと伝えらている松があったらしいのですが、今は少量の根を残すのみと書かれていました。多分これだと思うんですが?
20〜30cm位の見逃してしまいそうな根跡です。
石段の脇にひっそりとありました。 |
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南湖
南湖公園は、元々「大沼」と呼ばれた低湿地帯を白河藩主松平定信公が改修し、庭園としたものです。
1801年に造園された、我が国最古の「公園」です。
松、吉野桜、楓や花と緑と水の公園として四季折々に楽しめます。
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名物の南湖団子は公園の周囲のお休み処でどうぞ!
アクセス:JR東北新幹線新白河駅からバス10分南湖公園下車
小峰城
JR白河駅(新幹線の新白河駅ではありません)のスグ裏にある白河城は1340年に結城親朝が小峰ヶ丘に築城したのが始まりです。
慶應4年4月〜7月の約100日にかけて、奥羽列藩同盟と新政府軍の激戦が繰り広げられ、 |
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白河城は落城し焼失してしまいました。
その後平成3年に三重櫓という、実質的に天守の役割を果たした建物を木造で正確に復元。平成6年には引き続き三重櫓に隣接した前御門も復元しています。
櫓の中に入って見学もできます。
アクセス:JR東北本線白河駅より徒歩5分
白河ハリストス正教会(生神女進堂聖堂)
1915年(大正4)に建築された、ビザンチン様式のギリシャ正教会です。
堂内にあるイエス・キリストやマリアの聖像画50点は貴重なもので、茨城県出身の山下りんのイコン画像7点も含まれています。
事前に予約すれば、内部の見学もできるようですよ。
アクセス:JR東北本線白河駅より徒歩5分 |
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小原庄助さんのお墓
羅漢山人と彫られた墓石、そこが庄助さんのお墓です。会津塗師の久五郎という人だったようで、歌にもあるようにかなりお酒が好きだったようです。
墓の右奥には、徳利の上におちょこが乗っている石も置かれています。
アクセス:ハトリス教会の近くですが看板もなくわかりにくいので教会の近くで土地の人にきいたほうがいいですね。 |
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太白山・天恩皇徳寺というお寺さんにあります。菊池央という新撰組の人の小さなお墓もありました。
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