那須を行く

東北一人暮らし   

                 =奥の細道追っかけ記= 

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=那須=

今では関東有数のリゾート地那須
芭蕉さん達は日光からその那須へ入ってきましたが、私は仙台から行く身。
芭蕉さん達とは反対に白河から那須へと入ってきました。
那須の細道追っかけは、逆行になってしまいましたが
本文通りの構成で那須を綴ります。

(まだ全部巡りきっていませんので那須湯元から那須を出る芦野までということで・・・。)


   =殺生石=(那須町湯本)

昔、陰陽師に殺された九尾の狐が石になったという伝説のその石が殺生石です。

那須温泉神社のすぐ裏手の山の荒涼な落石跡?にある大きな岩のひとつです。

あたりはむせ返るほどの硫黄の臭いが立ち込めています。

標柱の左の大きい石が殺生石のようです。
是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、
「短冊 得させよ」と乞。やさしき事を望侍るものかなと、

  ”野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす”

殺生石は温泉の出る山陰にあり。 石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。


館代の浄法寺から馬で送ってもらい、那須の殺生石見物に行った芭蕉さん。

馬を引いてくれた馬方さんにサインをねだられ・・、ではなく、句を短冊に一句書いて欲しいと頼まれました。その心意気に一句こんな句を那須で読みました。
  
  
”野を横に 馬牽きむけよ ほとゝぎす”

 「那須の野を行くとほととぎすの声が聞こえる。馬方さん、その声のほうに馬を向けてくれないか」


そんなこんなで那須温泉が吹き出る山陰にある殺生石に着いた芭蕉さん。

「石の毒気いまだほろびず。」とあたりを見回すと、その毒気にやられた蜂や蝶の死骸が砂の色が見えないほど地面を覆っていることに驚いてしまいます。

そういえば殺生石の入り口にあった注意書きの看板にも、風のない日は硫黄のガスに注意と書いてありました。

私が訪れた時も雨雲が低く垂れ込め、かなりの臭いが谷間に漂っていました。
(ただ、実際に蜂や蝶の死骸があったかどうかはわかりません。少なくとも今はありませんので・・・。)

また、奥の細道の本文には書かれていませんが、曾良さんの日記には次のような句を芭蕉さんが詠んだと記されています。

     ”石の香や夏草赤く露あつし”

強烈な石の臭い(硫黄の臭い)で夏草も赤茶け、その草の露も熱くなっているというところでしょうか。



殺生石(那須町湯本)

  =白面金毛九尾の狐伝説=

平安初期のインド、中国を荒らしまわった九尾の狐がいよいよ日本に上陸。
美女に化け、時の帝(鳥羽法皇)に近づき日本征服をたくらみました。

しかし陰陽師に正体を見破られこの那須野が原に逃げ込みますが、とうとう退治されてしまいました。

その狐が死して巨石に化したのが殺生石ということです。

その狐の怨念は強く、石から毒気を出し近づく人や家畜などの生き物を殺し続けたというお話です。


殺生石まで行く途中の賽の河原にはグローブのような手をしたお地蔵さんが立ち並んでいます。

写真中央の木道を歩き突き当たりの山の斜面の岩肌に殺生石があります。

那須温泉神社【なすゆぜんじんじゃ】(那須町湯本)

殺生石のある谷のすぐ上に那須温泉神社があります。

芭蕉さん達もここを訪れ宝物をいろいろ見せてもらったようです。

また、那須与一は扇めがけて矢を射るときに「当たります様にっ!」とこの温泉神社の名をつぶやき願を掛けながら的を射抜いたといわれています。
温泉神社本殿
曾良日記に記されいる芭蕉さんが詠んだ「湯をむすぶ誓いも同じ岩清水」の句碑

「生きる」と命名されている高さ18m、樹齢800年のありがたいご神木。(ミズナラ) 文治弐年(1186年)、那須与一宗隆奉献と記されていました。


足 湯(那須町湯本)

那須温泉神社の大鳥居のすぐ横に足湯があります!

西暦630年頃、狩人に射られた白鹿が峡谷に逃げ隠れ、湯に入り傷を癒しているところを見つけたのが那須温泉の始まりといわれています。

その後奈良時代には正倉院の資料にも那須温泉は登場し、広く知れ渡っていたことがわかります。

ここの他にもいくつかの無料の足湯に入れますよ!
「こんばいろのゆ」
結構熱めでしたが歩きつかれた足を気持ちよく浸してきました。

芭蕉さんも那須湯本温泉に浸かったようですよ。

曾良さんの日記によるといくつかの湯を見て歩いたようです。(全部入ったかはわかりませんが・・・。)
傷を癒す白鹿のモニュメント

   =そして遊行柳へ=(那須町芦野)

そして那須のはずれにある芦野では、「道のべに 清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ」とあこがれの西行さんが詠んでいた柳にあいに行く芭蕉さんでした。
又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。 此所の郡守
戸部某の、「此柳みせばや」など、折おりにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立より侍つれ。

     ”田一枚植えて 立去る 柳かな”

芦野の里の田んぼの中に残っている、西行さんが詠んだ「清水流るる柳」を見に行った芭蕉さん。

西行さんを偲んで柳を見ているとアッという間に時間が過ぎていってしまったようで
こんな句を読んでいます。

   
”田一枚植えて 立去る 柳かな”

 「柳を見入っていろいろ考えているうちに、目の前で田植えをしていた人たちは田んぼ一枚の田植えを終えてしまっている。私ももう帰〜えろっと!」
本当に田んぼの真ん中に立っています。
この柳はまだ15年か20年前に植え替えたばかりだそうです。

2本立っていますが、向かって左側の柳が遊行柳です。隣には「田一枚・・」の句碑が立っています。

投句箱があったので私も一句詠んで投函してきました。

  「田の中の 柳見守る 大いちょう」 by管理人 JKストリーム

(上の左の写真左に見える山のふもとに神社があります。そこに枝ぶりも立派で天にも届きそうな大銀杏があったもので)季語も何もわからない素人の句です。聞き流してください・・・。



芦野宿(那須町芦野)

那須芦野温泉で有名な芦野宿は、芦野氏の居城(桜ケ城)の城下町として発生し江戸時代には奥州街道の関東の北端の宿場町として発展しました。
幕末には宿も40件くらいあったそうです。

今でも街道沿いの家々には昔の屋号が一軒一軒記されています。
(写真下の一番右です。)
奥州街道沿いの芦野宿の町並み 奥州街道の道標と屋号
武家屋敷門 芦野氏陣屋裏門 那須歴史探訪館


堂の下の岩観音(那須町芦野)

今にも崩れてきそうな切り立った岩を、小さなお社が封じ込めるかのようにに建っています。

高さ約三十メートルにわたって芦野石の岩肌がむき出しになっている景勝地の中腹にそのお堂は建っています。

お堂の下のほうには昔崩落した、大きな岩も横たわっていました。
またお堂の裏の岩肌には江戸時代あたりに刻まれたと思われる文字も残されています。
岩観音


境の明神(須郡那須町寄居)

街道脇の国境に境の明神がに鎮座しています。

まさにその目の前は栃木と福島の県境です。

広大な那須の原から、いよいよみちのく白河と入ってゆきます。
 
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