=國破れて山河あり=
「三代の榮耀一睡の中にして、大門の跡ハ一里こなたに有。秀衡が跡ハ田野に成て、金鶏山のミ形を殘す。先高舘にのぼれバ、北上川南部より流るゝ大河也。衣川ハ和泉が城をめぐりて、高舘の下にて大河に落入。康衡等が旧跡ハ衣が關を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。國破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て時のうつるま で泪を落し侍りぬ。
”夏草や兵どもが夢の跡”
”卯の花に兼房みゆる白毛かな ” 曾良 」
平泉といえば義経最期の地。そしてその義経の屋敷があった高舘(高館は平泉を流れる北上川に面した丘陵で、天和3(1683)年この地に仙台藩主第四代伊達綱村公が義経を偲んで義経堂を建てています。)に芭蕉さんは真っ先に登りました。
芭蕉さんはかなり義経に入れ込んでいるようですね。
コレまでも義経ゆかりの地では、あの悲劇のヒーローを思い起こし感慨にふけっていましたものね。 |
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義経堂 |
平泉の藤原三代の栄華も一瞬の夢と終わり、秀衡の屋敷跡は田や野となってしまいました。
昔の形を留めているのは金鶏を埋めたという「金鶏山」だけ。あれほど栄華した平泉、そしてその栄華のほとんどが消えてしまった平泉。
まさにこの文章がピタリ当てはまってしまったのでしょう。「国破れて山河あり」とどこかで聞いた言葉を記しています。
城春にして草青みたり」と平泉の高舘の丘から北上川を臨み時の移るのも忘れて涙を落とす芭蕉さんでした。
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高舘の丘から北上川、束稲山を臨む |
”夏草や兵どもが夢の跡”
”夢を追い武士達が戦ったこの場所も今はもう夏草が茂っている”
”卯の花に兼房みゆる白毛かな ” 曾良
”卯の花が髪振り乱して戦った兼房の白髪にも見えてくる” 曽良
と芭蕉さんと曽良さんで詠んでいます。
=平泉中尊寺 金色堂=
そしてさらに平泉中尊寺では金色堂を見物して次のように綴っています。
「兼て耳驚したる二堂開帳す。經堂ハ三將の像をのこし、光堂ハ三代の棺を納め、 三尊の佛を安置す。
七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新たに圍ミ、甍を覆て風雨を凌。暫時千歳の記念とハなれり。
”五月雨の降のこしてや光堂” 」
平泉観光の中心である藤原三代が祀られている平泉中尊寺。
その経堂には三将の尊像、光堂(中尊寺金色堂)には三将(藤原三代)の棺が納めてあります。 |
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そして、阿弥陀三尊の尊像が安置されていると聞き以前より興味を持っていた芭蕉さん。
朽ち果てていったものもあるが、ここ平泉中尊寺では後世に残そうとする人々が建物(金色堂)に囲い(覆堂)をしたりその屋根を葺きなおしたりして風雨から守っていることに感激します。 |
現在の金色堂新覆堂(この覆堂の中に金色堂があります) |
※覆堂とは金色堂の金箔などが風雨にさらされ傷むことを守るために金色堂を丸々覆っている建物です。 |
平泉中尊寺の金色堂に実際に収められている遺体は、初代清衡から基衡、秀衡そして四代目泰衡までの四遺体です。
《金色堂写真について》
「平泉中尊寺」とか、「金色堂」の写真というとみんな同じ写真を使っているのかと思うぐらいこのショットですよね。
(平泉中尊寺=金色堂というイメージがあまりにも強いので中尊寺のイメージはこの写真が使われるのでしょうね。)
でもここにいけばわかりますが、覆堂全体を入れようとするとここから撮るのが一番なんです。
写真右側は植え込みになっているので正面からは取れないんです。
また、平泉中尊寺=金色堂というイメージがあまりにも強いので中尊寺のイメージにもこのショットが多く使われるのでしょうね。
ひつこいようですが、くれぐれも間違えないでください。この写真は金色堂を囲ってる覆堂で、金色堂はこの建物の中にあります。
(この覆堂の中は撮影不可で写真が撮れません。ですから、他のサイトさんも金色堂として覆堂のこのショット写真が多いんだ思います。)
また、芭蕉さんたちが見た覆堂は(下の写真)新覆堂から50メートル位離れたところに移動されて、今でも残されています。
そしてその横には芭蕉さんの像も建てられていました。
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”五月雨の降のこしてや光堂”
”五月雨(長年の風雨)も金色堂を朽ち果てさすことはできなかった”
右の写真が、芭蕉さんたちが見た覆堂です。
当時はこの中に金色堂が入っていました。
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旧覆堂の中にも自由に入れます。
左の写真は”五月雨の・・・”の句碑。(中尊寺金色堂脇) |
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芭蕉さん像と旧覆堂 |
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平泉中尊寺(西磐井郡平泉町)
今や世界遺産に登録したことで注目を浴びている、平泉観光の超目玉の中尊寺。
その平泉中尊寺は12世紀のはじめ、奥州藤原氏の初代清衡公により多宝塔や二階大堂など多くの堂塔が造営されました。
その趣旨は前九年役・後三年役という長い戦乱で亡くなった人々の霊を なぐさめ、仏国土を建築するものでした。
14世紀に惜しくも堂塔は焼失しましたが、いまなお金色堂はじめ3000余点の国宝や重要文化財を伝える平安美術の宝庫であり平泉のシンボルでもあります。
アクセス:JR平泉→中尊寺月見坂入口まで徒歩25分。
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左の写真の中尊寺参道の月見坂の両脇にたくさんのお堂が立ち並びます。
中腹あたりに中尊寺本堂、そこから少し上ったところに資料館と金色堂があります。
資料館は三千点以上の国宝や重要文化財が展示されていて見ごたえ十分です!
平泉中尊寺、藤原三代の貴重な資料を見ることができますので、是非資料館をご覧になることをお奨めいたします! |
平泉中尊寺参道 月見坂 |
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中尊寺の参道を上りはじめてまもなく、立ち並ぶお堂の中に弁慶堂というお堂がありました。
中には弁慶の最期の立ち往生と義経の像が祀られているとのことです。
また、その少し上の茶屋では奥の細道展も常設されています。 |
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中尊寺内の弁慶堂 |
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弁慶の墓(西磐井郡平泉町) |
平泉中尊寺表参道の入り口の前に大きな松と桜の木があります。
その下に小さな五輪等がたちそこが武蔵坊弁慶の墓といわれています。
アクセス→JR平泉駅→中尊寺月見坂上り口スグ前 |
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高館義経堂(西磐井郡平泉町)
高館(たかだち)は、中尊寺の東方にある丘陵で、判官館(はんがんだて)とも呼ばれています。現在では、その半ばを北上川に浸蝕されて狭くないっているとのことです。
秀衡の庇護を受けた義経は、この平泉の高館の居館に住み、文治5年(1189)4月に頼朝の圧迫に耐えかねた泰衡の急襲にあって、自刃しました。
高館の頂上に、この義経堂があり、堂内には義経の像が祀られています。 |
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アクセス:JR平泉駅→徒歩20分 |
ガラスが反射してうまく撮れませんでした。 |
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毛越寺【もうつうじ】 (西磐井郡平泉町)
平泉観光はは中尊寺だけではありません。
毛越寺も是非見てください。
藤原氏二代基衡公と三代秀衡公が金堂円隆寺、嘉祥寺など壮大な伽藍(きゃら)を造営し、その規模は堂塔四十、僧坊五百を数え、中尊寺をしのぐほどの規模と華麗さであったといわれます。
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毛越寺本堂 |
”夏草や・・”の句碑。左は新渡戸稲造が同句を英訳した句碑。
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現在大泉が池を中心とする浄土庭園と平安時代の伽藍遺構がほぼ完全な状態で保存されています。
池の周りの建物が今も残っていたら本当に見事だったでしょう。
今は残念ながら柱の礎石しかありません。
敷地や礎石から当時の平泉の栄華を想像するのもまた歴史のロマンかもしれません。 |
大泉が池 |
アクセス:JR平泉駅より徒歩7分
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無量光院の跡(西磐井郡平泉町)
藤原秀衡が京都・宇治の平等院鳳凰堂にならって、ここ平泉に建てたという無量光院。平等院よりも大きかったと言われますが、度重なる火災で消失してしまいました。
毛越寺とこの無量光院のあった当時の平泉界隈を思うと、北の都平泉はなんと煌びやかで優雅な地だったのでしょう。
アクセス:JR平泉駅→徒歩10分
平泉郷土館 (西磐井郡平泉町)
藤原氏三代を中心とした平泉文化、また民話・伝説など口承文芸の宝庫である平泉地方のそれらが語り伝えられてきた民家の「ロバタ」を復元しています。
アクセス:JR平泉駅→徒歩15分
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